2012年 10月 02日
【映画】We're Not Gonna Take It 〜『ロック・オブ・エイジズ』 |
監督:アダム・シャンクマン
脚本:ジャスティン・セロー、クリス・ダリエンゾ、アラン・ローブ
音楽:アダム・アンダース、ピア・アストロム
【ネタバレ】あります!!!!
「トム・クルーズが唄う!」という惹句は、「ガルボがしゃべる!」ほど魅力的には聞こえない。
なぜならば、われわれはすでにトム・クルーズの歌声を耳にしているからだ。
80年代のMTV映画で60年代のポップスを唄うという行為と、2012年に80年代の楽曲を援用したミュージカル映画で唄うという所業は、シンクロニシティーも感じさせ、同時に時代の趨勢をも感じさせる。
それでも、トム・クルーズという俳優は、あくまで真摯に、クソ真面目に役柄へアプローチする。
その誠実さは一見に値する。
達者な役者は、どんな舞台であっても褪せぬ輝きを放つもの。本作でも、トム・クルーズを筆頭に、ポール・ジアマッティ、アレック・ボールドウィンらは自身の持ち味を十二分に発揮している。
シンガーという側面でみれば、メアリー・J・ブライジのパフォーマンスも圧巻である。
しかしながら、本作に対し諸手を上げて賞賛を表明できないのは、ユーモアのセンスの不在に他ならない。
これが、コメディとして演出されていれば? 80年代の産業ロックを批評的に眺めつつ、それでもなおロック礼賛の物語として帰結していれば?
はて、監督のアダム・シャンクマン、かような個性の人物であったか? と疑問にも思う。
本業たる振付(本作でクレジットされているのはミア・マイケルズ)も精彩を欠いている。
もしこれがケニー・オルテガ(『ハイスクール・ミュージカル』シリーズの監督・振付家)作品だったなら、「シスコはロック・シティ」と「ウィア・ノット・ゴナ・テイク・イット」のシュプレヒコール・シーンを素敵なアンサンブル・ダンスナンバーに仕立てたに違いない。
いやいや、根本から辿っていこう。
もはやオールディーズともいうべき、20年以上前の既成楽曲を使用してミュージカルを創作する、という課題に対峙した他の作品はどうだったか? 考えを巡らせてみよう。
既成楽曲を利用した、いわゆるジュークボックス・ミュージカル(カタログ・ミュージカルともいう)の代名詞ともいえる有名作で映画化もされた『マンマ・ミーア!』。
遡上にあげられたのは、70年代を席巻したABBAのスウェーディッシュ・ポップス。
ステージ化に際し、舞台に選ばれたのはエーゲ海に浮かぶギリシアの孤島。主人公は女手ひとつでホテル経営と一人娘の子育てに邁進してきた女性。娘は結婚間近で母もまた自分の恋に対面する。
楽曲を使用する以上、歌詞の部分と物語に関連性を見いだすのは容易だが、着目すべきは楽曲が生まれた背景と物語の背景がかけ離れているということである。
スウェーデンで生まれた楽曲、ギリシアを舞台にした物語、そして唄は英語で歌われている。
次に思い起こしていただきたいのは映画オリジナルのミュージカル作品『ムーラン・ルージュ!』。
カンカン踊りで名高いナイトクラブを舞台に、踊り子と作家の恋模様を虚実ない交ぜに描いた物語は、『ラ・ボエーム』や『椿姫』といったオペラ作品からの影響も色濃い、典型的な悲恋譚。
ここて使用されている楽曲は60年代から90年代までの英米のヒットソングと幅広いが、物語の舞台は遠く離れた19世紀末のパリである。
ここでもフランスを舞台にした物語が、台詞も唄も英語で繰り広げられる。
もうひとつ例を挙げよう。
映画化こそされていないもののロンドンのウエストエンドで大ヒットし、日本でもツアー・カンパニーで上演された舞台ミュージカル『ウィ・ウィル・ロック・ユー』。
使用されているのは、英国を代表するロック・バンド、クイーンの70〜80年代の楽曲。
物語の舞台はロック音楽がタブーとされている未来の英国。
この作品、大衆に認知されている楽曲のおかげで、会場が巨大カラオケBOXの様相を呈する盛り上がりをみせているものの、物語はお粗末きわまりなく、ミュージカルとしての完成度は著しく低い。
例えばこんなシーンがある。
過去のロックの隆盛を知らない未来の子供たちが、遺跡の中から見出したロック的なものと思われるキーワードをロック再興のシンボル的に扱おうとするのだが、そこで(笑いを取ろうと)引き合いに出されるのが「ブリトニー・スピアーズ」。
正直、ぜんぜん笑えない。
前掲の2例との違いがおわかりになるだろうか。
『マンマ・ミーア!』や『ムーラン・ルージュ!』が行ったのは、楽曲と物語をできるだけ引き離すこと。
有名楽曲であればあるほど、それぞれの人にそれぞれの思い入れが存在する。だからこそ、それはヒット曲足り得ているのであり、たったひとつのメロディがおそろしく豊穣な物語を持っている。
曲にはそれが生まれ、受け入れられた背景があり、ミュージカル曲として、作り手の意図する物語として機能させるためには、一度、その出自から切り離してやらなければならないのだ。
『ロック・オブ・エイジズ』に話を戻そう。
この作品もまた、ジュークボックス・ミュージカルの舞台を原作とした映画化作品である。
2006年のLA公演から舞台はスタートした。2008年にはオフ・ブロードウェイ公演を行い、翌09年にブロードウェイ・デビューを果たしている。
監督のアダム・シャンクマンはブロードウェイ公演を観劇し、観客が歌詞を知り、舞台とともに歌う姿に感銘を受けたとコメントする。
それ、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』の日本公演のときにぼくも観たよ。
本稿を書くにあたって、いくつかの『ロック・オブ・エイジズ』ブロードウェイ公演のレビューにあたったのだが、映画化に際しかなりの改変がなされていることがわかった。
例えば、舞台版でバーボン・ルームに対立するのは立ち退きを目論む建設会社の社長とその息子で、そのからみで市長こそ出てくるものの映画でキャサリン・ゼタ=ジョーンズが演じた役は映画化時の創作であるとか、ロック界のスーパースター、ステイシー・ジャックスに挑んでいくローリング・ストーン誌の記者もまた映画オリジナルのキャラクターだとか、舞台版にはそもそも現代から80年代のLAへと誘う狂言回し(映画版ではラッセル・ブラントが演じているロニー)が登場するとか。
反対派にゼタ=ジョーンズ扮する市長夫人を登場させたのは、ほぼ同様のストーリーラインを持つ『バーレスク』という先行作品があることも影響しているだろう。しかしながら、彼女のキャラクターの来し方行く末はあまりにも付け焼き刃でヒドすぎる。
ステイシーの役回りの変化は、良くも悪くもトム・クルーズをキャスティングできたことが大きいかも知れない。スター俳優のイメージ維持のために舞台版にあったエッジは消え失せることになったが、それでもステイシーが物語とともに成長するキャラクターへと変化したのには功を奏した側面もあったと思う。
舞台版『ロック・オブ・エイジズ』は、アリーナ・ロックのミュージカルパロディをみせる舞台として機能している。
だからこそ、客席に座った観客を誘う狂言回しが必要だったのだ。
『キャバレー』のMC役のように、観客に語りかけ、主人公たちの生きる「80年代のLA」へ導くロニーの姿は、映画版ではバーボン・ルームという店で出演者を紹介する姿にその名残をとどめている。
問題は、リアリティー・ラインだと思うのだ。
リアリティー・ラインとは、観客が物語の荒唐無稽さを受け入れるための、最低限の約束事である。
作り手がその設定を誤ってしまえば、観客は途端に物語への興味を失い、残された時間、退屈と戦いながら作品のあら探しに奔走することとなる。
『ロック・オブ・エイジズ』を観ていて、気になった点が二つある。
ひとつめは、シェリーとドリューの最初のデートのシーン。
歌手志望のドリューは、昨夜出逢ったシェリーからインスピレーションを受けて書いた曲のさわりを披露する。
それは、ジャーニーの「Don't Stop Believin'」の出だし。
もうひとつは、シェリーの進言でドリューのバンドがステイシー・ジャックスの前座に抜擢されるくだり。
バーボン・ルームのオーナー、デニスは「3曲演奏、カバー曲はなし」と告げる。
で、彼らが演奏するのがウォレントの「Heaven」と、トウィステッド・シスターの「I Wanna Rock」。
物語の舞台は1987年、LA。
舞台版で、狂言回しが果たしていた役割はどんなだったのだろう? と思いを馳せる。
観客は、どんな87年に身を置けば良いのだろう?
さらにジュークボックス・ミュージカルの例を。
これもまた、映画オリジナルのミュージカル。『アクロス・ザ・ユニバース』では、ザ・ビートルズの楽曲を使用しながら、ザ・ビートルズ自身が活躍した時代に生きた若者たちを描き出す。
しかしそこには、ザ・ビートルズというバンドは存在しない。
よく似てはいるけれど、われわれが知るのとは違う、存在しなかった60〜70年代。
『ロック・オブ・エイジズ』の物語は、ごくごく単純なビルドゥングス・ロマンであり、ボーイ・ミーツ・ガールのストーリーである。映画化にあたり改変されたロック・スター、ステイシー・ジャックスの挿話も含め観客の共感を得る要素は充分にあった。
それが正しい方法で観客の前に姿を現していたならば。
いやでも、やっぱり
ぼくらにこれはないわ。
脚本:ジャスティン・セロー、クリス・ダリエンゾ、アラン・ローブ
音楽:アダム・アンダース、ピア・アストロム
【ネタバレ】あります!!!!
「トム・クルーズが唄う!」という惹句は、「ガルボがしゃべる!」ほど魅力的には聞こえない。
なぜならば、われわれはすでにトム・クルーズの歌声を耳にしているからだ。
80年代のMTV映画で60年代のポップスを唄うという行為と、2012年に80年代の楽曲を援用したミュージカル映画で唄うという所業は、シンクロニシティーも感じさせ、同時に時代の趨勢をも感じさせる。
それでも、トム・クルーズという俳優は、あくまで真摯に、クソ真面目に役柄へアプローチする。
その誠実さは一見に値する。
達者な役者は、どんな舞台であっても褪せぬ輝きを放つもの。本作でも、トム・クルーズを筆頭に、ポール・ジアマッティ、アレック・ボールドウィンらは自身の持ち味を十二分に発揮している。
シンガーという側面でみれば、メアリー・J・ブライジのパフォーマンスも圧巻である。
しかしながら、本作に対し諸手を上げて賞賛を表明できないのは、ユーモアのセンスの不在に他ならない。
これが、コメディとして演出されていれば? 80年代の産業ロックを批評的に眺めつつ、それでもなおロック礼賛の物語として帰結していれば?
はて、監督のアダム・シャンクマン、かような個性の人物であったか? と疑問にも思う。
本業たる振付(本作でクレジットされているのはミア・マイケルズ)も精彩を欠いている。
もしこれがケニー・オルテガ(『ハイスクール・ミュージカル』シリーズの監督・振付家)作品だったなら、「シスコはロック・シティ」と「ウィア・ノット・ゴナ・テイク・イット」のシュプレヒコール・シーンを素敵なアンサンブル・ダンスナンバーに仕立てたに違いない。
いやいや、根本から辿っていこう。
もはやオールディーズともいうべき、20年以上前の既成楽曲を使用してミュージカルを創作する、という課題に対峙した他の作品はどうだったか? 考えを巡らせてみよう。
既成楽曲を利用した、いわゆるジュークボックス・ミュージカル(カタログ・ミュージカルともいう)の代名詞ともいえる有名作で映画化もされた『マンマ・ミーア!』。
遡上にあげられたのは、70年代を席巻したABBAのスウェーディッシュ・ポップス。
ステージ化に際し、舞台に選ばれたのはエーゲ海に浮かぶギリシアの孤島。主人公は女手ひとつでホテル経営と一人娘の子育てに邁進してきた女性。娘は結婚間近で母もまた自分の恋に対面する。
楽曲を使用する以上、歌詞の部分と物語に関連性を見いだすのは容易だが、着目すべきは楽曲が生まれた背景と物語の背景がかけ離れているということである。
スウェーデンで生まれた楽曲、ギリシアを舞台にした物語、そして唄は英語で歌われている。
次に思い起こしていただきたいのは映画オリジナルのミュージカル作品『ムーラン・ルージュ!』。
カンカン踊りで名高いナイトクラブを舞台に、踊り子と作家の恋模様を虚実ない交ぜに描いた物語は、『ラ・ボエーム』や『椿姫』といったオペラ作品からの影響も色濃い、典型的な悲恋譚。
ここて使用されている楽曲は60年代から90年代までの英米のヒットソングと幅広いが、物語の舞台は遠く離れた19世紀末のパリである。
ここでもフランスを舞台にした物語が、台詞も唄も英語で繰り広げられる。
もうひとつ例を挙げよう。
映画化こそされていないもののロンドンのウエストエンドで大ヒットし、日本でもツアー・カンパニーで上演された舞台ミュージカル『ウィ・ウィル・ロック・ユー』。
使用されているのは、英国を代表するロック・バンド、クイーンの70〜80年代の楽曲。
物語の舞台はロック音楽がタブーとされている未来の英国。
この作品、大衆に認知されている楽曲のおかげで、会場が巨大カラオケBOXの様相を呈する盛り上がりをみせているものの、物語はお粗末きわまりなく、ミュージカルとしての完成度は著しく低い。
例えばこんなシーンがある。
過去のロックの隆盛を知らない未来の子供たちが、遺跡の中から見出したロック的なものと思われるキーワードをロック再興のシンボル的に扱おうとするのだが、そこで(笑いを取ろうと)引き合いに出されるのが「ブリトニー・スピアーズ」。
正直、ぜんぜん笑えない。
前掲の2例との違いがおわかりになるだろうか。
『マンマ・ミーア!』や『ムーラン・ルージュ!』が行ったのは、楽曲と物語をできるだけ引き離すこと。
有名楽曲であればあるほど、それぞれの人にそれぞれの思い入れが存在する。だからこそ、それはヒット曲足り得ているのであり、たったひとつのメロディがおそろしく豊穣な物語を持っている。
曲にはそれが生まれ、受け入れられた背景があり、ミュージカル曲として、作り手の意図する物語として機能させるためには、一度、その出自から切り離してやらなければならないのだ。
『ロック・オブ・エイジズ』に話を戻そう。
この作品もまた、ジュークボックス・ミュージカルの舞台を原作とした映画化作品である。
2006年のLA公演から舞台はスタートした。2008年にはオフ・ブロードウェイ公演を行い、翌09年にブロードウェイ・デビューを果たしている。
監督のアダム・シャンクマンはブロードウェイ公演を観劇し、観客が歌詞を知り、舞台とともに歌う姿に感銘を受けたとコメントする。
それ、『ウィ・ウィル・ロック・ユー』の日本公演のときにぼくも観たよ。
本稿を書くにあたって、いくつかの『ロック・オブ・エイジズ』ブロードウェイ公演のレビューにあたったのだが、映画化に際しかなりの改変がなされていることがわかった。
例えば、舞台版でバーボン・ルームに対立するのは立ち退きを目論む建設会社の社長とその息子で、そのからみで市長こそ出てくるものの映画でキャサリン・ゼタ=ジョーンズが演じた役は映画化時の創作であるとか、ロック界のスーパースター、ステイシー・ジャックスに挑んでいくローリング・ストーン誌の記者もまた映画オリジナルのキャラクターだとか、舞台版にはそもそも現代から80年代のLAへと誘う狂言回し(映画版ではラッセル・ブラントが演じているロニー)が登場するとか。
反対派にゼタ=ジョーンズ扮する市長夫人を登場させたのは、ほぼ同様のストーリーラインを持つ『バーレスク』という先行作品があることも影響しているだろう。しかしながら、彼女のキャラクターの来し方行く末はあまりにも付け焼き刃でヒドすぎる。
ステイシーの役回りの変化は、良くも悪くもトム・クルーズをキャスティングできたことが大きいかも知れない。スター俳優のイメージ維持のために舞台版にあったエッジは消え失せることになったが、それでもステイシーが物語とともに成長するキャラクターへと変化したのには功を奏した側面もあったと思う。
舞台版『ロック・オブ・エイジズ』は、アリーナ・ロックのミュージカルパロディをみせる舞台として機能している。
だからこそ、客席に座った観客を誘う狂言回しが必要だったのだ。
『キャバレー』のMC役のように、観客に語りかけ、主人公たちの生きる「80年代のLA」へ導くロニーの姿は、映画版ではバーボン・ルームという店で出演者を紹介する姿にその名残をとどめている。
問題は、リアリティー・ラインだと思うのだ。
リアリティー・ラインとは、観客が物語の荒唐無稽さを受け入れるための、最低限の約束事である。
作り手がその設定を誤ってしまえば、観客は途端に物語への興味を失い、残された時間、退屈と戦いながら作品のあら探しに奔走することとなる。
『ロック・オブ・エイジズ』を観ていて、気になった点が二つある。
ひとつめは、シェリーとドリューの最初のデートのシーン。
歌手志望のドリューは、昨夜出逢ったシェリーからインスピレーションを受けて書いた曲のさわりを披露する。
それは、ジャーニーの「Don't Stop Believin'」の出だし。
もうひとつは、シェリーの進言でドリューのバンドがステイシー・ジャックスの前座に抜擢されるくだり。
バーボン・ルームのオーナー、デニスは「3曲演奏、カバー曲はなし」と告げる。
で、彼らが演奏するのがウォレントの「Heaven」と、トウィステッド・シスターの「I Wanna Rock」。
物語の舞台は1987年、LA。
舞台版で、狂言回しが果たしていた役割はどんなだったのだろう? と思いを馳せる。
観客は、どんな87年に身を置けば良いのだろう?
さらにジュークボックス・ミュージカルの例を。
これもまた、映画オリジナルのミュージカル。『アクロス・ザ・ユニバース』では、ザ・ビートルズの楽曲を使用しながら、ザ・ビートルズ自身が活躍した時代に生きた若者たちを描き出す。
しかしそこには、ザ・ビートルズというバンドは存在しない。
よく似てはいるけれど、われわれが知るのとは違う、存在しなかった60〜70年代。
『ロック・オブ・エイジズ』の物語は、ごくごく単純なビルドゥングス・ロマンであり、ボーイ・ミーツ・ガールのストーリーである。映画化にあたり改変されたロック・スター、ステイシー・ジャックスの挿話も含め観客の共感を得る要素は充分にあった。
それが正しい方法で観客の前に姿を現していたならば。
いやでも、やっぱり
ぼくらにこれはないわ。
by scarpiaii
| 2012-10-02 21:10
| 映画館