2006年 10月 01日
9月に見た映画 〜幾度も語り直される物語〜 |
『グエムル/漢江の怪物』
怪物を中心に据えながら家族映画であるところなど、初期のスピルバーグ作品を髣髴とさせる。さらわれた娘を救い出そうとする家族というプロットの中には70年代後半~80年代初頭当時、スピルバーグを扱う批評に見受けられた父親の不在も垣間見える。それは父性への目覚めというテーマの裏返しであり、本作でも家長たる祖父の退場と共に、家族がそれぞれのキャラクターを生かした活躍をみせるからこそ、圧倒的な暴力をもって迫る怪物への対峙が絵空事にならずホームドラマとして着地している。もちろんクライマックスを担うのは父親であるが、救出を待つ対象であるはずの少女にも親心的な自己犠牲を強いることで、彼女もまた、家族の一員であることが証明されている。
『ユナイテッド93』
巷で言われているようなドキュメンタリーらしさは微塵も感じられない。確かに手持ちカメラを多用した不安定なカメラワークは役者陣に混ざってセットにいるような錯覚を起こさせるが、一方で全体の構成を見れば、各所をカットバックでつなぎ観客に情報を提供しながら、当事者にはなかった俯瞰的な視点を与えている。その劇的効果の最たる部分がニューアーク空港での離陸シークエンスで、米国内便では日常的な、滑走路の渋滞とフライトの遅れを丹念に描く最中、管制室で他機のハイジャックが発覚し、同時多発テロが姿を現したその瞬間、93便が飛び立つのである。もしもあの時~と思わせるその作劇は伝統的な悲劇の作法に他ならない。そして我々はアメリカが(加害者を悪人と描かずとも)911を悲劇としてしか捉えられないことを如実に知らされるのだ。
『日本沈没』
娯楽映画を作ろうとする情熱は感じられるが、劇映画を作る基本がなってない。『ローレライ』に続きまるで福井晴敏が書いたかのようなつぎはぎ脚本は、借り物の意匠ばかりで、そのうえ物語のセットアップすらまともにできていない。冒頭部分は、設定の説明に追われまともな物語のかけらも無いものだから、字幕で繋がざるを得なくなる。やっと物語が動き出すのは豊川悦司扮する田所博士が政府要人に向かって啖呵を切る辺りからだが、その後に描かれる政府担当官(大地真央)との関係は『インデペンデンス・デイ』からのもろパクリ。監督インタビューで、田所博士のイメージはジェフ・ゴールドブラム(『ザ・フライ』の、とことわっているが)との発言は、さすがに良心が咎めたか。沈没を止める方法は『アルマゲドン』まんまでそれがスーサイド・ミッションであるところまで借りてきた挙句、その犠牲が物語として何ら機能していないという体たらく。ありゃ死に損だよ。唯一『デイ・アフター・トゥモロー』からいただいてきた、(原作にもある)国外脱出計画が日本政府らしく各国の反感を買い、賄賂まで用意しながら外国政府には裏切られる展開のみが面白い。
『ファントマ 危機脱出』
深夜のテレビ放映で出会った緑マスクの怪人の印象は強烈で、後年ビデオを買い揃えたりもしたのだが、映画館でかかると聞いては(それがたとえプロジェクター上映で、後のDVD発売の宣伝だったとしても)、馳せ参じずにはいられない。案の定、このシリーズ第1作目は記憶している通りでジャン・マレー対ジャン・マレーが大きな見せ場になっている。実際、全篇を通してマスクか変装という役だけでは、せっかくの二枚目がもったいないというのが、新聞記者ファンドールも彼が演じる唯一の理由ではないだろうか。
『スーパーマン・リターンズ』
25年ぶりの続篇ともなれば、旧作で描かれた詳細を取っ払っていきなり、という訳にもいかないのだろう。それにしても余りにも多くの要素が旧作からの焼き直しである現状を考えれば、これは続篇というよりもリメイクに近い作品である。
第1作からケント農場でのシーンや、レックス・ルーサーによるクリプトナイト強奪を加えつつ、基本ストーリーは『II/冒険篇』をなぞり、刑務所を出たレックス・ルーサーが孤独の砦を発見してスーパーマンと対峙する新たな計略を見出す。三悪人こそ登場しないものの新たな力を得たルーサーとの対決をベースに、ロイス・レインとスーパーマンとの関係に焦点を当て、アメコミ映画をネクスト・レベルに引き上げようとする狙いは、リチャード・レスターが『II/冒険篇』で試みたことの焼き直しである。
しかし、残念ながらレスター監督の下でコメディアンとしての才能を開花させたクリストファー・リーヴと異なり、今回の主役ブランドン・ラウスはスーパーマンを演じるのに精一杯で、クラーク・ケントを掘り下げるまでには至らない。監督ブライアン・シンガーは『X-MEN』シリーズでも同様のチャレンジをある程度成功させているが、レスターという先達のいるこのシリーズでは分が悪い。
シンガーの良さが出ているのは、クライマックスにおいて本企画立ち上げのきっかけとなった「スーパーマンの死」(これすら、既に『II/冒険篇』で描かれた要素であるが)に逃げることなく取り組み、新聞の見出しにワーキング・タイトルでもあった「Superman Lives」を掲げファンをにやりとさせる愛情豊かな部分にある。
アメコミに何の思い入れも無く、タイツ姿で歩き回る男にリアリティを与える無駄な努力を廃し、非現実的なメロドラマやコメディを作り上げたリチャード・レスターの巧みな映画作りと比して、今作が勝っている要素があるとすれば、まさにこのキャラクターに対する感情である。これはアメリカがスーパーマンを愛しているという意思表明なのだ。
『ファントマ 電光石火』
「ファントマ、解き放たれる」という煽情的なタイトルの通り、前作では宝石泥棒に過ぎなかったファントマがいよいよ、言葉通り世界征服に向けて翼を広げる第2弾。第1作のストーリーをダイジェストで見せるアニメーション・タイトルはいかにも60年代風で楽しく、世界的科学者の誘拐事件における変装をモチーフにしたドタバタは、前作よりもコメディ色を濃くしている。中盤、ミレーヌ・ドモンジョが舞踏会で見せるアラビアン・ナイトの仮装はお色気担当の面目躍如の素晴らしさ。ラストまでそのままの出で立ちなのもうれしい。
『太陽』
ロシア特撮凄っと思いながら幻想的な夢を見ているうちに知らぬ間に戦争が終わっている構成からも分かる通り、これは歴史を描いた作品ではないし、描かれていることも事実ではない。しかし芝居のディテールから、いかにもありえそうな雰囲気を醸し出すことに長けたイッセー尾形を中心に据えることでこの企画は十分に機能している。実は、御馴染みの一人芝居を淡々と見せられているだけにもかかわらず、そこにそれ以上の何かを見出してしまう日本人にこそ、見られるべき映画である。
『王と鳥』
なるほど、これは確かに『王と鳥』の物語であり、煙突掃除人と羊飼いの娘(『やぶにらみの暴君』の原題)の比重は低い。であれば果たして『やぶにらみの暴君』とは何だったのか。若いカップルをフィーチャーした場面は、再構成に当たって巧妙に取り除かれたというのか。カメラは決して彼らを注視することなく、むしろ背景であるべき城=社会構造に向いており、その崩壊を描いているというところでは『メトロポリス』を髣髴とさせる。
『ファイナル・デッドコースター』
音楽の使い方が馬鹿馬鹿しくも素晴らしい。オハイオ・プレイヤーズの“愛のローラーコースター”やレターメンの“ふりかえった恋”など、誰もが思いついて、でも決してやらないようなベタな挿入歌が流れる度に、顔がほころんできて映画に対する好意が増していく。その一方で主眼である犯人不在のシリアル・キラーは、3作目ともなると頭打ちで、本篇は人が死ぬシーンの連続とはいえ、飽和状態のまったりとした空気が漂う。そんな中で脱力系ギャグのような曲がかかるものだからなおさら効果的と言ってしまおうか。お決まりのエンディングの後、クレジットと共に流れるトミー・リーによる“ラヴ・トレイン”のカバーがサイコー。
『江戸川乱歩全集/恐怖奇形人間』
『パンラマ島奇談』といえば、伊東四朗(天知茂主演の「土曜ワイド劇場」版出演)の印象が強烈過ぎて、私的体験としてそれを上回るというのは難しい。さらに言えばタイトルや未ソフト化といった周辺情報から期待されるほど突飛な映画ではない。それどころか実に真っ当な娯楽映画であり、乱歩モノとしても上出来の部類に入るのではないか。それはやはり、真っ当とは言いながらも随所に挿入される石井輝男の「普通でない」感覚が乱歩世界を形作る最良の要素となっているからであろう。
『ファントマ ミサイル作戦』
前作のイタリアに続き、第3弾は原題にもある通りイギリスが舞台。お馴染みとなったトリオが英国の地に降り立つシーンでタラップの注目を独占するミニスカートの美女(恐らくツィッギーがモデル)は楽しいが、ほぼ全篇、舞台となる古城のセットで展開されるものだから2作目のような、当時流行りの観光地映画としての趣きも楽しみも、残念ながら感じられない。演出自体も過去2作品で受けたであろうルイ・ド・フュネスのドタバタを偏重し、せっかく広げたファントマの大風呂敷も結局、再び宝石泥棒に収斂してしまう辺りが食い足りない。
『X-MEN/ファイナル・ディシジョン』
劇的な監督交代劇にもかかわらずシリーズの大団円となった快作。前2作を尊重し、現場を円満に仕切ったブレット・ラトナーもさることながら、これまでの作品とプリプロダクションの段階できっちりとセットアップを行ったブライアン・シンガーこそ、やはり本作を含むこの3部作の功労者と称えたい。丁度、旧『スーパーマン』シリーズにおける二人のリチャード(ドナーとレスター)の関係の裏返しとみれば判りやすいか。シンガーの離脱が垣間見えるのは、不仲の伝えられたハル・ベリー(ストーム役)の役割が突然、増しているところと、恐らくその際に割を食ったジェームス・マースデン(サイクロプス役)が、早々に退場してしまうところ。しかしその結果、ストームはともかく、ウルヴァリンとジーン・グレイのドラマがシンプルに浮き上がるのだから見事な脚本というほか無い。その他、お馴染みのキャラクター達の顛末も納得で、商業的判断とはいえ余韻を残すところも、本作においては歓迎すべき観客への目配せであろう。
怪物を中心に据えながら家族映画であるところなど、初期のスピルバーグ作品を髣髴とさせる。さらわれた娘を救い出そうとする家族というプロットの中には70年代後半~80年代初頭当時、スピルバーグを扱う批評に見受けられた父親の不在も垣間見える。それは父性への目覚めというテーマの裏返しであり、本作でも家長たる祖父の退場と共に、家族がそれぞれのキャラクターを生かした活躍をみせるからこそ、圧倒的な暴力をもって迫る怪物への対峙が絵空事にならずホームドラマとして着地している。もちろんクライマックスを担うのは父親であるが、救出を待つ対象であるはずの少女にも親心的な自己犠牲を強いることで、彼女もまた、家族の一員であることが証明されている。
『ユナイテッド93』
巷で言われているようなドキュメンタリーらしさは微塵も感じられない。確かに手持ちカメラを多用した不安定なカメラワークは役者陣に混ざってセットにいるような錯覚を起こさせるが、一方で全体の構成を見れば、各所をカットバックでつなぎ観客に情報を提供しながら、当事者にはなかった俯瞰的な視点を与えている。その劇的効果の最たる部分がニューアーク空港での離陸シークエンスで、米国内便では日常的な、滑走路の渋滞とフライトの遅れを丹念に描く最中、管制室で他機のハイジャックが発覚し、同時多発テロが姿を現したその瞬間、93便が飛び立つのである。もしもあの時~と思わせるその作劇は伝統的な悲劇の作法に他ならない。そして我々はアメリカが(加害者を悪人と描かずとも)911を悲劇としてしか捉えられないことを如実に知らされるのだ。
『日本沈没』
娯楽映画を作ろうとする情熱は感じられるが、劇映画を作る基本がなってない。『ローレライ』に続きまるで福井晴敏が書いたかのようなつぎはぎ脚本は、借り物の意匠ばかりで、そのうえ物語のセットアップすらまともにできていない。冒頭部分は、設定の説明に追われまともな物語のかけらも無いものだから、字幕で繋がざるを得なくなる。やっと物語が動き出すのは豊川悦司扮する田所博士が政府要人に向かって啖呵を切る辺りからだが、その後に描かれる政府担当官(大地真央)との関係は『インデペンデンス・デイ』からのもろパクリ。監督インタビューで、田所博士のイメージはジェフ・ゴールドブラム(『ザ・フライ』の、とことわっているが)との発言は、さすがに良心が咎めたか。沈没を止める方法は『アルマゲドン』まんまでそれがスーサイド・ミッションであるところまで借りてきた挙句、その犠牲が物語として何ら機能していないという体たらく。ありゃ死に損だよ。唯一『デイ・アフター・トゥモロー』からいただいてきた、(原作にもある)国外脱出計画が日本政府らしく各国の反感を買い、賄賂まで用意しながら外国政府には裏切られる展開のみが面白い。
『ファントマ 危機脱出』
深夜のテレビ放映で出会った緑マスクの怪人の印象は強烈で、後年ビデオを買い揃えたりもしたのだが、映画館でかかると聞いては(それがたとえプロジェクター上映で、後のDVD発売の宣伝だったとしても)、馳せ参じずにはいられない。案の定、このシリーズ第1作目は記憶している通りでジャン・マレー対ジャン・マレーが大きな見せ場になっている。実際、全篇を通してマスクか変装という役だけでは、せっかくの二枚目がもったいないというのが、新聞記者ファンドールも彼が演じる唯一の理由ではないだろうか。
『スーパーマン・リターンズ』
25年ぶりの続篇ともなれば、旧作で描かれた詳細を取っ払っていきなり、という訳にもいかないのだろう。それにしても余りにも多くの要素が旧作からの焼き直しである現状を考えれば、これは続篇というよりもリメイクに近い作品である。
第1作からケント農場でのシーンや、レックス・ルーサーによるクリプトナイト強奪を加えつつ、基本ストーリーは『II/冒険篇』をなぞり、刑務所を出たレックス・ルーサーが孤独の砦を発見してスーパーマンと対峙する新たな計略を見出す。三悪人こそ登場しないものの新たな力を得たルーサーとの対決をベースに、ロイス・レインとスーパーマンとの関係に焦点を当て、アメコミ映画をネクスト・レベルに引き上げようとする狙いは、リチャード・レスターが『II/冒険篇』で試みたことの焼き直しである。
しかし、残念ながらレスター監督の下でコメディアンとしての才能を開花させたクリストファー・リーヴと異なり、今回の主役ブランドン・ラウスはスーパーマンを演じるのに精一杯で、クラーク・ケントを掘り下げるまでには至らない。監督ブライアン・シンガーは『X-MEN』シリーズでも同様のチャレンジをある程度成功させているが、レスターという先達のいるこのシリーズでは分が悪い。
シンガーの良さが出ているのは、クライマックスにおいて本企画立ち上げのきっかけとなった「スーパーマンの死」(これすら、既に『II/冒険篇』で描かれた要素であるが)に逃げることなく取り組み、新聞の見出しにワーキング・タイトルでもあった「Superman Lives」を掲げファンをにやりとさせる愛情豊かな部分にある。
アメコミに何の思い入れも無く、タイツ姿で歩き回る男にリアリティを与える無駄な努力を廃し、非現実的なメロドラマやコメディを作り上げたリチャード・レスターの巧みな映画作りと比して、今作が勝っている要素があるとすれば、まさにこのキャラクターに対する感情である。これはアメリカがスーパーマンを愛しているという意思表明なのだ。
『ファントマ 電光石火』
「ファントマ、解き放たれる」という煽情的なタイトルの通り、前作では宝石泥棒に過ぎなかったファントマがいよいよ、言葉通り世界征服に向けて翼を広げる第2弾。第1作のストーリーをダイジェストで見せるアニメーション・タイトルはいかにも60年代風で楽しく、世界的科学者の誘拐事件における変装をモチーフにしたドタバタは、前作よりもコメディ色を濃くしている。中盤、ミレーヌ・ドモンジョが舞踏会で見せるアラビアン・ナイトの仮装はお色気担当の面目躍如の素晴らしさ。ラストまでそのままの出で立ちなのもうれしい。
『太陽』
ロシア特撮凄っと思いながら幻想的な夢を見ているうちに知らぬ間に戦争が終わっている構成からも分かる通り、これは歴史を描いた作品ではないし、描かれていることも事実ではない。しかし芝居のディテールから、いかにもありえそうな雰囲気を醸し出すことに長けたイッセー尾形を中心に据えることでこの企画は十分に機能している。実は、御馴染みの一人芝居を淡々と見せられているだけにもかかわらず、そこにそれ以上の何かを見出してしまう日本人にこそ、見られるべき映画である。
『王と鳥』
なるほど、これは確かに『王と鳥』の物語であり、煙突掃除人と羊飼いの娘(『やぶにらみの暴君』の原題)の比重は低い。であれば果たして『やぶにらみの暴君』とは何だったのか。若いカップルをフィーチャーした場面は、再構成に当たって巧妙に取り除かれたというのか。カメラは決して彼らを注視することなく、むしろ背景であるべき城=社会構造に向いており、その崩壊を描いているというところでは『メトロポリス』を髣髴とさせる。
『ファイナル・デッドコースター』
音楽の使い方が馬鹿馬鹿しくも素晴らしい。オハイオ・プレイヤーズの“愛のローラーコースター”やレターメンの“ふりかえった恋”など、誰もが思いついて、でも決してやらないようなベタな挿入歌が流れる度に、顔がほころんできて映画に対する好意が増していく。その一方で主眼である犯人不在のシリアル・キラーは、3作目ともなると頭打ちで、本篇は人が死ぬシーンの連続とはいえ、飽和状態のまったりとした空気が漂う。そんな中で脱力系ギャグのような曲がかかるものだからなおさら効果的と言ってしまおうか。お決まりのエンディングの後、クレジットと共に流れるトミー・リーによる“ラヴ・トレイン”のカバーがサイコー。
『江戸川乱歩全集/恐怖奇形人間』
『パンラマ島奇談』といえば、伊東四朗(天知茂主演の「土曜ワイド劇場」版出演)の印象が強烈過ぎて、私的体験としてそれを上回るというのは難しい。さらに言えばタイトルや未ソフト化といった周辺情報から期待されるほど突飛な映画ではない。それどころか実に真っ当な娯楽映画であり、乱歩モノとしても上出来の部類に入るのではないか。それはやはり、真っ当とは言いながらも随所に挿入される石井輝男の「普通でない」感覚が乱歩世界を形作る最良の要素となっているからであろう。
『ファントマ ミサイル作戦』
前作のイタリアに続き、第3弾は原題にもある通りイギリスが舞台。お馴染みとなったトリオが英国の地に降り立つシーンでタラップの注目を独占するミニスカートの美女(恐らくツィッギーがモデル)は楽しいが、ほぼ全篇、舞台となる古城のセットで展開されるものだから2作目のような、当時流行りの観光地映画としての趣きも楽しみも、残念ながら感じられない。演出自体も過去2作品で受けたであろうルイ・ド・フュネスのドタバタを偏重し、せっかく広げたファントマの大風呂敷も結局、再び宝石泥棒に収斂してしまう辺りが食い足りない。
『X-MEN/ファイナル・ディシジョン』
劇的な監督交代劇にもかかわらずシリーズの大団円となった快作。前2作を尊重し、現場を円満に仕切ったブレット・ラトナーもさることながら、これまでの作品とプリプロダクションの段階できっちりとセットアップを行ったブライアン・シンガーこそ、やはり本作を含むこの3部作の功労者と称えたい。丁度、旧『スーパーマン』シリーズにおける二人のリチャード(ドナーとレスター)の関係の裏返しとみれば判りやすいか。シンガーの離脱が垣間見えるのは、不仲の伝えられたハル・ベリー(ストーム役)の役割が突然、増しているところと、恐らくその際に割を食ったジェームス・マースデン(サイクロプス役)が、早々に退場してしまうところ。しかしその結果、ストームはともかく、ウルヴァリンとジーン・グレイのドラマがシンプルに浮き上がるのだから見事な脚本というほか無い。その他、お馴染みのキャラクター達の顛末も納得で、商業的判断とはいえ余韻を残すところも、本作においては歓迎すべき観客への目配せであろう。
by scarpiaii
| 2006-10-01 18:00
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