2006年 09月 27日
8月に見た映画 〜色んな意味で恐ろしい映画たち〜 |
『笑う大天使』
全くまとまりの無い様々な要素が、意外なことに多くが原作から援用されていると聞かされれば、作り手の無頓着ぶりに呆れるほか無いだろう。クライマックスを盛り上げるべき誘拐話が冒頭で触れられたきり何の進展も見せなければ、カメオ出演した西岡徳馬も気の毒というもの。キャラクターを掘り下げる中盤のエピソードも後知恵によれば原作漫画のパッチワーク程度のおためごかしで、独り善がりの脈絡の無さと、物語上無意味なシーンが満載である。では他方、そこにVFX屋らしいビジュアルへのこだわりがあるのかと思いきや美術(テーマパークをそのまま使用)と衣裳は散々たる有様で、特に衣裳における方向性の勘違いは甚だしく、上流社会を舞台にした物語はもはや、この国では作り得ないのかと思わざるを得ない。
『リブ・フリーキー!ダイ・フリーキー!』
ロック・ミュージカルを期待していたので曲数の少なさにがっかりだが、楽曲自体は魅力的で大いに楽しめる。特筆すべきは、音楽以上にロックな製作者の姿勢である。独特なデザインの人形芝居は物語のシリアスさを中和するのに役立っているが、それに輪をかけて、ベースとなったマンソン・ファミリーの事件以上に脚本の隅々で毒を吐くものだから、反社会性にかけてはピカイチの、ロック映画になっている。
『ディセント』
取り立ててあざといことをするわけではなく、丁寧に仕上げられた映画の発揮する力は侮れない。低予算とはいっても、きちんと第2班もいるプロダクションで撮影された本作は、劇映画の手本のような手堅い演出をみせる。冒頭、ショック描写を盛り込みつつキャラクターを紹介し、伏線をはる手際。ロケを生かしたショットで物語を盛り上げていきつつ、ロケとセットをシームレスに繋ぐ洞窟の見事なライティング。洞窟内の照明では暗闇も印象的に使われ、要所で提示される、『ザ・キープ』や『CUBE』を髣髴とさせる引きの絵が効果的で素晴らしい。
『サイレントヒル』
前半の少々ダルな雰囲気からはよもやそういう話になるとは思いも至らず、クライマックスにおける阿鼻叫喚の地獄絵図は大向こうからの拍手喝采で迎えられるべきであろう。魔物の徘徊する街で、魔女狩りという八方塞な状況、セ・ラ・ヴィといった感じのキャラクターの突き放し方も素晴らしい。地獄では人間でありつづけることの方が歪であり、異形のものこそが正規の住人として街を我物顔で闊歩していく。そんな中、目的のために手段を選ばない主人公の決断は凛として清々しささえ感じさせるが、当然の帰結として一度解き放たれた地獄の扉は、決して元には戻せない事を知るのである。
『ローズ・イン・タイドランド』
ごっこ遊びなのである。冒頭から主人公は社会と切り離されてしまっているから、奔放なファンタジーを巡らしたところで一向に対立は生まれない。やっと登場する人物とて神がかっていたり、知恵遅れていたりという案配では、(同じモチーフでありながら)これまでのギリアム作品のようにイマジネーションが現実を凌駕することも無く(映画製作に於ける苦労続きのせいかかつての無邪気さは無い)、知ってか知らずかカメラもまた少女の夢想ではなく夢見る少女を切り取り続ける。結果、写し出されるのはごっこ遊びに耽る少女と彼女を取り巻く、どうしようもなく悲惨な状況。特に父親を演じるジェフ・ブリッジスに振りかかる顛末は、生半可な想像力を凌駕した幻想といってもいい。そんな特異な背景の中で“ごっこ”に興じる主人公の姿が映画のセットで演技に打ち込む役者と重なり、だんだんと観ているこちらが恐ろしくなってくる。
『神の左手 悪魔の右手』
ただ人が殺されるだけの映画という点では大いに好感が持てるが、せっかくの特殊メイクや血糊もあの写し方では興醒め。一方、少女写真家としての金子修介らしさは全開で、ほんのわずかな出演となる犠牲者の少女たちを含め、皆愛情たっぷりに撮られている。特に大邸宅の2階寝室に閉じ込められ(足が悪いせいだが)、父親に対しても敬語で接する少女漫画の非現実的なリアリティを体現したキャラクターを無理無く演じてみせる清水萌々子が出色。血濡れのクライマックスに至るまで梅図かずおらしい顔で画面を引き締める。そのクライマックス自体は那須博之の企画だったことを考え合わせると悪くないが、その後、フラッシュフォワードを挿んでのエンディングは脚本上どうなっていたのかといぶかしむほどに混乱しており残念な仕上がりである。
『ザ・フォッグ』
「この怨み、はらさずにおくべきか」と言っておきながら、生き残る者の取捨選択に疑問を感じる。結局のところ、それは恐怖をスポイルしているのだ。エリザベスの行動が残った者たちを救ったというのであれば、すなわち彼女の自己犠牲が物語の鍵だというのであれば、もっと彼女のエモーションに寄り添うべきだったのだ。前半部分が恐ろしくつまらないのもそのせいだ。忌まわしき4つの姓を持つ者もそうでない者も等しく、心胆を寒からしめるそんな霧であるべきだったのだ。
『デビルズ・リジェクト/マーダー・ライド・ショー2』
前作に引き続き『悪魔のいけにえ』愛に溢れた映画である。しかし今回は純粋にホラー映画というわけではなく、『バニシング・ポイント』に代表されるようなアメリカン・ニュー・シネマの肌触りを感じさせる。それは悪夢のような屋敷を飛び出し、炎天下のロードサイドでアウトローな行為を繰り広げた挙句、前述した映画と同じ道を辿っているから、と言うだけではなく、良質の音楽映画としても成立しているが故にその名が想起されるのである。実際、アウトローな行為の具現化として提示される殺戮を通して見出されるのは、家族への愛情であり、その激しい情感のぶつかり合い。結果として強く魂を揺さぶる力作となっている。
『時をかける少女』(2006)
人生をやり直す(そんな大事ではないにしろ)、あるいは他人の人生を良くしようとするためにタイムリープして過去を修正って、これ『バタフライ・エフェクト』じゃん。『バタフライ・エフェクト』の、いかにもアメリカ映画らしいシチュエーション・コメディ的な構成とは異なり、ディテールでパラレルワールドを表現する辺りはワビサビ文化の国らしくて好感を持って迎えられそうだが。好評もなるほどなぁと思わせる手堅いつくりである一方、これが特筆すべき映画であるのなら日本映画のレベルはまだまだ低いと言わざるをえない。光のトンネルはもう飽きたよ。
『ハイテンション』
スクリーンでこれほどの量の血糊を眼にするのは、久しぶりである。スプラッターと呼ぶにふさわしい飛び散りっぷりで清清しい。物語はソリッドに人体破壊描写を羅列したもので潔さを感じさせるが、問題はあのどんでん返しである。『サイレン/Forbidden Siren』のようにそれまでの描写をぶち壊しかねない危険性を孕んだものだが、セシル・ド・フランスの極限まで鋭利に研ぎ澄まされた演技力と存在感が説得力をもたらし救いとなっている。
全くまとまりの無い様々な要素が、意外なことに多くが原作から援用されていると聞かされれば、作り手の無頓着ぶりに呆れるほか無いだろう。クライマックスを盛り上げるべき誘拐話が冒頭で触れられたきり何の進展も見せなければ、カメオ出演した西岡徳馬も気の毒というもの。キャラクターを掘り下げる中盤のエピソードも後知恵によれば原作漫画のパッチワーク程度のおためごかしで、独り善がりの脈絡の無さと、物語上無意味なシーンが満載である。では他方、そこにVFX屋らしいビジュアルへのこだわりがあるのかと思いきや美術(テーマパークをそのまま使用)と衣裳は散々たる有様で、特に衣裳における方向性の勘違いは甚だしく、上流社会を舞台にした物語はもはや、この国では作り得ないのかと思わざるを得ない。
『リブ・フリーキー!ダイ・フリーキー!』
ロック・ミュージカルを期待していたので曲数の少なさにがっかりだが、楽曲自体は魅力的で大いに楽しめる。特筆すべきは、音楽以上にロックな製作者の姿勢である。独特なデザインの人形芝居は物語のシリアスさを中和するのに役立っているが、それに輪をかけて、ベースとなったマンソン・ファミリーの事件以上に脚本の隅々で毒を吐くものだから、反社会性にかけてはピカイチの、ロック映画になっている。
『ディセント』
取り立ててあざといことをするわけではなく、丁寧に仕上げられた映画の発揮する力は侮れない。低予算とはいっても、きちんと第2班もいるプロダクションで撮影された本作は、劇映画の手本のような手堅い演出をみせる。冒頭、ショック描写を盛り込みつつキャラクターを紹介し、伏線をはる手際。ロケを生かしたショットで物語を盛り上げていきつつ、ロケとセットをシームレスに繋ぐ洞窟の見事なライティング。洞窟内の照明では暗闇も印象的に使われ、要所で提示される、『ザ・キープ』や『CUBE』を髣髴とさせる引きの絵が効果的で素晴らしい。
『サイレントヒル』
前半の少々ダルな雰囲気からはよもやそういう話になるとは思いも至らず、クライマックスにおける阿鼻叫喚の地獄絵図は大向こうからの拍手喝采で迎えられるべきであろう。魔物の徘徊する街で、魔女狩りという八方塞な状況、セ・ラ・ヴィといった感じのキャラクターの突き放し方も素晴らしい。地獄では人間でありつづけることの方が歪であり、異形のものこそが正規の住人として街を我物顔で闊歩していく。そんな中、目的のために手段を選ばない主人公の決断は凛として清々しささえ感じさせるが、当然の帰結として一度解き放たれた地獄の扉は、決して元には戻せない事を知るのである。
『ローズ・イン・タイドランド』
ごっこ遊びなのである。冒頭から主人公は社会と切り離されてしまっているから、奔放なファンタジーを巡らしたところで一向に対立は生まれない。やっと登場する人物とて神がかっていたり、知恵遅れていたりという案配では、(同じモチーフでありながら)これまでのギリアム作品のようにイマジネーションが現実を凌駕することも無く(映画製作に於ける苦労続きのせいかかつての無邪気さは無い)、知ってか知らずかカメラもまた少女の夢想ではなく夢見る少女を切り取り続ける。結果、写し出されるのはごっこ遊びに耽る少女と彼女を取り巻く、どうしようもなく悲惨な状況。特に父親を演じるジェフ・ブリッジスに振りかかる顛末は、生半可な想像力を凌駕した幻想といってもいい。そんな特異な背景の中で“ごっこ”に興じる主人公の姿が映画のセットで演技に打ち込む役者と重なり、だんだんと観ているこちらが恐ろしくなってくる。
『神の左手 悪魔の右手』
ただ人が殺されるだけの映画という点では大いに好感が持てるが、せっかくの特殊メイクや血糊もあの写し方では興醒め。一方、少女写真家としての金子修介らしさは全開で、ほんのわずかな出演となる犠牲者の少女たちを含め、皆愛情たっぷりに撮られている。特に大邸宅の2階寝室に閉じ込められ(足が悪いせいだが)、父親に対しても敬語で接する少女漫画の非現実的なリアリティを体現したキャラクターを無理無く演じてみせる清水萌々子が出色。血濡れのクライマックスに至るまで梅図かずおらしい顔で画面を引き締める。そのクライマックス自体は那須博之の企画だったことを考え合わせると悪くないが、その後、フラッシュフォワードを挿んでのエンディングは脚本上どうなっていたのかといぶかしむほどに混乱しており残念な仕上がりである。
『ザ・フォッグ』
「この怨み、はらさずにおくべきか」と言っておきながら、生き残る者の取捨選択に疑問を感じる。結局のところ、それは恐怖をスポイルしているのだ。エリザベスの行動が残った者たちを救ったというのであれば、すなわち彼女の自己犠牲が物語の鍵だというのであれば、もっと彼女のエモーションに寄り添うべきだったのだ。前半部分が恐ろしくつまらないのもそのせいだ。忌まわしき4つの姓を持つ者もそうでない者も等しく、心胆を寒からしめるそんな霧であるべきだったのだ。
『デビルズ・リジェクト/マーダー・ライド・ショー2』
前作に引き続き『悪魔のいけにえ』愛に溢れた映画である。しかし今回は純粋にホラー映画というわけではなく、『バニシング・ポイント』に代表されるようなアメリカン・ニュー・シネマの肌触りを感じさせる。それは悪夢のような屋敷を飛び出し、炎天下のロードサイドでアウトローな行為を繰り広げた挙句、前述した映画と同じ道を辿っているから、と言うだけではなく、良質の音楽映画としても成立しているが故にその名が想起されるのである。実際、アウトローな行為の具現化として提示される殺戮を通して見出されるのは、家族への愛情であり、その激しい情感のぶつかり合い。結果として強く魂を揺さぶる力作となっている。
『時をかける少女』(2006)
人生をやり直す(そんな大事ではないにしろ)、あるいは他人の人生を良くしようとするためにタイムリープして過去を修正って、これ『バタフライ・エフェクト』じゃん。『バタフライ・エフェクト』の、いかにもアメリカ映画らしいシチュエーション・コメディ的な構成とは異なり、ディテールでパラレルワールドを表現する辺りはワビサビ文化の国らしくて好感を持って迎えられそうだが。好評もなるほどなぁと思わせる手堅いつくりである一方、これが特筆すべき映画であるのなら日本映画のレベルはまだまだ低いと言わざるをえない。光のトンネルはもう飽きたよ。
『ハイテンション』
スクリーンでこれほどの量の血糊を眼にするのは、久しぶりである。スプラッターと呼ぶにふさわしい飛び散りっぷりで清清しい。物語はソリッドに人体破壊描写を羅列したもので潔さを感じさせるが、問題はあのどんでん返しである。『サイレン/Forbidden Siren』のようにそれまでの描写をぶち壊しかねない危険性を孕んだものだが、セシル・ド・フランスの極限まで鋭利に研ぎ澄まされた演技力と存在感が説得力をもたらし救いとなっている。
by scarpiaii
| 2006-09-27 23:57
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